Work Of Art

(最近、1日ずれて更新してしまっていますが、いずれ是正いたしますので何卒ご容赦を)

そういえば今日は我が街では花火大会があり、明日からは祭りなわけである。

私は商業を生業としているわけではないのであまり興味がないのだが、かと言って全くもって完全にスルーする、というのもなんとも市民らしくないような気がしてならない。それどころか、家でビールを飲みながら花火のどんどん、という音だけ聞いていると、何だか夏を思いっきり逃してしまっているのではないか、という気がしてくるから困りものである。

そう、毎年毎年、物心ついてから「夏を逃し続けている」という焦燥感ばかりで夏が終わってしまっているような気がしてならない。暑いから汗をかくし、夏だからビールが美味いし、アイスも美味い。明らかに疑いようもなく「夏」を過ごしている。でも何だか「あわわ、夏が終わってしまう」とかそういう気持ちに襲われながら過ごしてしまうのは何故なのだ。

花火大会に行かないから夏を逃す、ということもまあ実際問題としてないのだろうけれども、何だかそういう気がしてならない。ましてやプールなぞ全く行く気もないのだが、なんだか行かないと夏を逃す、という気になってくる。何故だ。何故なのだ。

それは私が思うにメディアが夏夏夏夏煽りすぎなのだ。何かロマンティックなことが生まれそうな予感ばりばりの、汗の一滴も関係なさそうな爽やかさのイメージ戦略がこの季節に向けて大量に投下されるわけで、それを毎年毎年浴びていれば、市井の民の普通の夏の過ごし方では「夏」を逃しているような感覚に襲われてしまうわけである。なるほどなー。そうだよなー。

と頭でわかっていても何だか胸騒ぎがするのだが、そんなロマンティックな夏、とかそういう言葉は最早30過ぎには関係ないわけで、単に暑いだけだ、という風に書いていても何だか空しさが募る。メディアって凄いなあ。ところでYUIの「Summer Song」とかいう曲のPV(You Tubeでも貼れば良いのだろうけれども、私の通信方式Air H"では重くて見れないし、貼り方がわからないので各自健闘を祈る)があまりにもそのメディアが提示するイメージ通りの「高校生男女の夏」なので是非見ていただきたいものである。私はスカパーでこれを見たのだが、のけぞると同時に、「こんな夏過ごしてる奴等いるんかー」と全力でツッコミたくなった。

どっちかと言えば昨日聴いたTokyo No.1 Soulsetの「足で蹴り上げる豪快な夏」とかいうフレーズの方が不思議とリアリティを持って胸に響いてくるのは何故だ。全くもって意味のわからないフレーズだが、嗚呼そうだよなあ、となるのは何故だ。夏にまつわるエトセトラは摩訶不思議で一杯である。

不思議で一杯ながらJandekの「The Humility Of Pain」を聴く。2002年作である。断言しよう。これを聴いていると夏を逃す云々以前に全てを逃している気になってくる。でもそんな喪失感が心地よく響く夜もあるわけである、花火のどんどんいう音を遠くに聞きながら。無調なアクースティックギターの調べに乗せた(乗ってない)、無調極まりないJandek御大のヴォーカルが適当に、しかしジャストに響く作品である。まあ他の作品とあまり大差ないような気がしないでもないのだが、でもここに於いて御大は声の裏返りやら唸り声から結構ヴァラエティ豊かに声芸を聴かせてくれている、ような気がする。しかし彼の場合こういうスタジオ作品で極限までどん底に突き落としておきながら、ライヴ盤でピアノの調べも静謐で美しい作品を提示してきたり、と結構油断も隙もありゃしないわけである。全50作品近くを全て聴いたわけでもないから偉そうなことは全くいえないのだけれども。意外に長尺な曲が多く、灰野敬二氏がブルーズを感じた、という彼の世界を嫌になるくらい堪能できる作品。でも何枚も聴けば聴くほど、なんだかもっと聴きたい、という気にさせられるのは何故だ。彼にまつわるエトセトラも(本当に)摩訶不思議で一杯である。