Oblivious

たまに夢を見るのだが、よく見るパターンの夢、というものは誰にでもあるのだろうか。

私の場合、何故か「あの店(店のみならず、場所だったり、誰かの家だったり)に行こうよ」と誘われて「ああ、あそこね、行ったことあるよー」的なやりとりをする夢をよく見る。で、夢の中に於ける私の、その場所に関する記憶は非常に鮮明で、そして実際「行った」という感覚もあるのだが、目が覚めてみると、あれ、実際に行ったことあるっけ?と考えこんでしまうのである。

当然実際、つまり起きている状態でそんな場所に行ったことはない。それどころか、その場所が実在するのかどうかすら全くわからない。つまり現実には知らない場所なのに夢の中では知っている、そして行った経験もある、という状態の夢をよく見るのである。

これは何なんだろうか。夢分析とか詳しい人ならばバシッと答えを出してくれそうなものであるが、私のようなズブの素人としては、不思議やのう、と言わざるを得ない。よく夢というのは現実にあることがあって、それの影響でそれに基づいた夢を見る、という話を聞くのだが、私の場合、結構乖離しているような。

しかしそれでいて、夢の中に於いて私の記憶がある、というのが凄く不思議である。もしかしたら自分、夢の中に存在している自分、というのがいるんじゃなかろうか。そいつは私が夢を見るときにしか私には感じられないけれども、ちゃんと「夢界」で生活していて色々経験していて、記憶も積み重ねていって、ということをしているのではないだろうか。そのうち「夢界」の私と今こうやって書きNagっている私が入れ替わったりしてしまうんだ。階段落ちした時とか。雷に打たれた時とか。

何か妄想がオーヴァードライヴしてしょうがないのだが、Aztec Cameraの「High Land, Hard Rain」を聴こう。83年のデビューアルバムである。夏って本当は蒸し暑くてことに最近はじとーという嫌な暑さだったりもしくは涼しすぎたりとかするのだけれども、このアルバムを聴くと何だか、爽やかな夏、というイメージが広がるのは実に安直過ぎて馬鹿みたいなのだが、実際そういう風に思えるアルバムである。要は清涼感、ということなのだな。所謂ネオアコ、とかいう音の話になると必ず出てくるアルバムである。確かにアクースティックギターの音色が全編に渡って大層印象的だし、まだ10代だったRoddy Frameの歌声も可愛い、とか言っても良いくらいに若々しくて、所謂ネオアコと聞いて想起されるイメージにはびったりであろう。きらびやかに成り過ぎないくらいにシンセドラムとか鍵盤とか入っていて、結構今聴くと斬新なコーラスワークも含めて決して単調にはならず、飽きずに楽しめるアルバムである、今更私が言うまでもないのは勿論であるが。ただ、まだまだ荒削りなままである。ところでACの代表作と言えばまあ、この作品になるのだろうけれども、このアルバムだけでは絶対にACの魅力の10分の1、否、200分の1も感じ取れないはず、とあえて暴言を吐いてみたくなった。まあ、そういう日もある、ということで。