Drive Like I Never Been Hurt

人間いくつになっても、わからないことだらけである。

私は味付け玉子、所謂味玉という奴が大好きで、ラーメン屋に行ってもついつい頑張って100円くらい値が上がるけれども味玉入りのラーメンやらつけ麺やらを頼んでしまうことが多い。

しかし、ここで1つ問題があって、私は味玉自体は好きなのだが、その味玉の黄身が崩れて全体に絡んできたりするのはダメなのである。かと言って黄身が固めなのも味玉好きとしては実にもう一声、という感じであって、黄身は柔らかめの半熟に近い、もしくは半熟のもう一歩上、というくらいの柔らかさが望ましいわけである。

だからラーメンに味玉が入ってきたときにはまず、崩さないようにしてラーメンを食べ始め、満を持して蓮華に玉子を載せて玉子のみを食べるようにしている。これは生卵が苦手で、且つ玉子ご飯とかはもってのほか、という私らしい、実に自分のアティテュードがよく現れた食べ方だと思うのだが、毎回毎回果たして俺はこれで良いのか、という疑問が払拭できずにいる。

つまりラーメンに味玉が入っている、ということは一緒に食え、という店側のアティテュードの表れなのではないか、と思うわけである。最近のラーメン屋は何だかアティテュードがそのまま形を変えてラーメンに、という勢いなわけで、そこでその味玉だけ別にサルベージして食べる、というのは何だかその基本姿勢に対していきなりアンチな姿勢を表明していることにならないのだろうか、という疑問が私の中を駆け巡ったりする。

かと言って絡めるくらいだったら寧ろ味玉抜きで食べたい私であるからその姿勢は撤回できないわけで、毎度毎度味玉は美味しいのに、アンビヴァレントな思いに引き裂かれそうになりながらいるわけである。

とは言え、果たして何が正しい味玉+ラーメンの食べ方なのか、そういう基本的なところもわかっていないので、是非教えていただきたいものである。つまり貴兄貴女はどうやって味玉+ラーメンを食すのですか、ということを。

こういうしょうもないことをずらずら書けるようになってきたのは復調の兆し、ということで今日はご容赦いただきたい。Ry Cooderの「I, Flathead」を聴く。2005年の「Chavez Ravine」Chavez Ravine、2007年の「My Name Is Buddy」My Name Is Buddyに続くカリフォルニア3部作の最終作、らしい。私はRy Cooderの音楽の熱心な聴き手では決してないのであるが、ここ最近のアルバムは何だかレトロ・フューチャー(今頃マジメにこういう言葉使ってしまうと何だかしょっぱさが伴うのだが)な感覚が面白く、しかもカントリー臭もどんどん強くなってきていて愛聴していたものである。各アルバム毎のコンセプトも面白かったし。で、今作は何でも架空の回顧録に沿った音楽集、というこれまた実に面白いテーマの作品である。内容的にも3部作の最後を飾るに相応しい、Ry Cooderの憎めないヴォーカルと、様々な(ラテンなど)要素を含みながらもやっぱりカントリーっぽさが濃厚なルーツ路線、でもミックスだの録音だのは凄くクリアでしかしどこかおかしい、人工的な部分が必ずあるような音作り、という大爆発状態で文句なしに面白い。面子もご子息Joachim Cooderを始めとしてJim KeltnerやらFlaco Jimenez, Jon Hassellまで参加していたりする。 「Johnny Cash」なんていう曲ではJohnny Cashの曲のフレーズやらを引用しながら演奏していたりして、そういう何だか大らかな感じが心地よいアルバムである。でもやっぱりテーマは昔のアメリカ、そして栄光と挫折、的な大袈裟に言えばそういう感じで決して明るいだけのテーマではない。でもそれでも何とかやってこうぜ、みたいな光が見える辺りとかユーモラスに飛ばしていく感じもこの3部作の特徴だったなあ、とかしみじみ思ったりした。ところで、何だか大きめのサイズの輸入盤が初回であったので迷わずそちらを入手したのだが、ブックレット、というよりは薄めのペーパーバック、のような勢いで小説(これが噂の架空の回顧録)が付いてきており、やっちまった、と後悔しても時既に遅し。辞書片手にじっくり読んでこのアルバムのことをもっとよく理解していかなければならなくなってしまったのである。だって、こんな物語が付いてきているのに読まずに済ませる、というのも何だか落ち着かないではないか・・・。これ、頑張って和訳してみようかと思ったのだが、どうせ日本盤が出る時にはちゃんと訳されたのが付いてくるんだろうなあ・・・。で、リンクは当然ながら初回盤の本付き、の奴である。