Chilly Dream

tdsgk2008-02-18


昨夜のAOBA NU NOISEにご来場の皆様、どうもありがとうございました。何すかね、30分間のDJ時間にあれもこれも詰め込んでどかーとやってしまう、ってのは自分貧乏症なんですかね・・・。でも相変わらず出演する2バンドのライヴは毎回毎回面白すぎて最高すぎるなあ、と思っていたら、来月は平日で3月25日の火曜日に、にせんねんもんだいとZUという、激豪華2ゲストのライヴもある特別編です。女房とか旦那とか子供とか両親とか祖父母とか一族郎党まとめて質に入れて、万難を排して是非いらしてください。

止むを得ず通販を利用する私なのである。だって、欲しいものが私の日頃行動できる範囲の店頭にはなくてですね、とか別に今更言い訳なぞしなくても良いであろう。

過日もThe Mars Voltaの7インチが欲しくて通販を利用したのであった。何故かと言えば熱いファンに怒られそうであるが、B面がSiouxsie And The Bansheesのカヴァーでしてね、ええ。まあ、その7インチが届いたのである。それは問題なくしっかりと梱包されて届いたのである。何ら輸送中の事故もなくそれはそれは無事に届いたのであった。7インチは直系17センチくらいのものであるが、それに対して30センチのアナログ盤が入っても余るだろ、というくらいの大きさの箱に厳重に梱包されて無事に届いたのであった。

その包みを見てふと思ってしまったのだが、この世の中、店で買い物をする時にマイバッグを持っていって買い物することが推奨されて久しい。猫も杓子もマイバッグ(注:何だか悪い感じに聞こえるかも知れませんがそうではなく、それだけこの動きが広まっている、ということです)という感じである。私も必要ないときにはコンビニでは袋いりません、と言うし、レコード屋でだって袋がいらない時には断る。まあ、そういう感じである。

しかして、この通販の包みである。この箱は再生紙で出来ているらしいのだが、これは結構今の世の趨勢には反しているのかなあ、とふと思ってしまった。しかし、通販を利用するということは必ず手元に届くまでには輸送が必要なわけで、その途中で破損したり何らかの害が及んでしまったら元も子もない。だから厳重な包み、というか梱包は必要不可欠である。ただ、この梱包がこのマイバッグ的世の中では・・・、とか考えていたら見事に全てがループして人間ミニマルになってしまって終わりのない思考の世界に突入してしまったのだ、まるでLa Monte Youngの音楽のように。

ならば通販を利用せずに店頭で買えるもののみで勝負すべきか、となると今のこの世の中の状況に於いては私のような人間にとってはちょっと無理である。やはり消費の抑制が大事なのだろうか。買い物を控えろ、ということなのだろうか。否、無駄な買い物は決してしていないはずである。あれもこれも、となる前にかなり吟味して厳選して苦悩して清水の舞台から飛び降りて狂おしくなりながらクレジットカードの情報を画面に向って苦悶の表情を浮かべて入力しているのだ。となるともう通販を利用することはやめたほうが良いのだろうか。しかしそうなると消費の停滞を招きただでさえ馬鹿みたいなことばっかやってるこの国の経済状況の更なる悪化を招き、そうなるとまたこの国は馬鹿だから大量に二酸化炭素を排出しながら何かを作り出すことしかできなくなり、結局元の木阿弥である。とするとやはり消費はしなければいけないわけで、そうなってくるとまた通販が・・・、と見事にこちらもミニマルである。

更に、大体にして輸送の際に排出される二酸化炭素も、とか考え始めていくと今こうして生きて電力を消費ながら、酸素を吸って二酸化炭素を吐きながらPCに向って言葉を打っている私が生きていることがこの世の中ではいけないのではないか。何故現代に生きる人間は、そもそも矛盾を抱えて生きているものが人間だと言うのに生活の全ての側面に於いて、近頃では強烈な自己否定を強いられているのか、とか考え始めてしまうのである。人間、本当はまあ「ほどほどに、そして気をつけて」暮らしていけば良いのに、というかそれしか出来ないはずなのに、何だか変に環境問題で強迫観念を覚え始めるようになってしまったのは何故か。

それは金持ちどもが自分のことを棚に上げて他人のことばかりを、環境に良くない、とか言って糾弾し始めたからであるぅわああああああ。

とこの無限ループを打破しようとムチャクチャな結論に達して(否、結論でも何でもない)しまう昨今であるが、まあ、ある程度の必要悪というのを認めていかなければいけないのだろうな、と結局何だかユルイことを思わざるを得ないのであった。

できる範囲でできることを、ということが大事なのだろうか。しかし昨今の環境問題ブームとでも呼べそうな世の動きの中ではそれさえも叶わぬような、極限まで自己を滅却しなければならないような風潮が生まれそうで怖い。ロハスとか言っているうちが華だと思うなあ。

なんか最近極端な世の中で。生きているだけで批判されそうな勢いである。渡邉琢磨の「冷たい夢、明るい休息」を聴く。Combopiano名義ではなく、本名名義での第1作である。昨年は気がつくと2度もライヴを見ていたのであるが、その時に感じた楽しさがギュッと詰まったような作品である。前作もかなり痛快に突き抜けた、所謂ロックンロール的な、と言っても過言ではない作品であったのだが、今作ではその路線が推し進められて最早ハードコア、とか言っても良いような物凄い怒涛のようなナンバーまでもが収録されている。と同時に前作にも参加してEmmett Kellyの柔らかいヴォーカルをフィーチャーした前作路線の歌ものからピアノインスト、楽しげなバンドインスト、と実に種種様々なナンバーが収録されている。しかしかといってとっ散らかったムチャクチャな音楽になっているのではなく、ビシっと筋は通っており、そしてどの曲からも感じられるのは何だか「ライヴバンド」然とした逞しいバンド(と言うかユニットか)の音であり、純粋に色々やってみて楽しい、という喜びの音なのである。ウキウキする、とか言う言葉はとても軽薄に聞こえるものの、そういう何だか心躍る、次は何が来るんだろうか、的な音楽を聴く楽しみが連続して表れるアルバムである。加えて、渡邉琢磨本人のヴォーカルが、ライヴで聴いた時はご愛嬌、という感じで今作の宣伝でも「ヘタウマ」とか何とか書いてあったが、実に良い声なのである、と少なくとも私は思う。そんな彼のヴォーカルとピアノ、そしてギターもしっかりとフィーチャーされた、自身の名を冠するに相応しい傑作だと思う。The Red Krayolaを想起するようなメロディラインの曲もあって、何だか変な意味ではなく微笑ましく軽やかな作品である。