Spellbound

告知です。次の日曜日です!

2008/02/17(SUN) -W- Monthly EVENT "AOBA NU NOISE"@SHAFT OPEN: 19:00~25:00 TICKET: ADV:1500yen(2Drink) / DOOR:2000yen(2Drink)

BAND act: -W- (waikiki champions), runny stools
DJ's: EVOL(LOVE RECORDS),TASHI-ROCK (AFTER DARK),drop (Leaf & Villain)

詳細はわかり次第お伝えしますが、まあ、来てください。間違いないですから!とか強気の告知を。

本を読んでいて、猛烈に興奮を覚える時がある。それはどのような興奮かと言うと、字を読んでいる目の辺りからその言葉を咀嚼している頭の辺りまでが、何だかカーッと熱くなるような感じがして、と同時に眼が大きく開き、そして心臓の鼓動が速くなるような興奮である。もしかしたら実際問題そういう変化は身体に起きていないのかも知れないのだけれども、そういうノリの興奮を覚える時がある。

これは別に激しい性描写があって、とかそういう問題ではないので誤解のなきよう。だったら上記のような興奮ではなく(以下略)。

最近ベケットの『名づけえぬもの』名づけえぬものという本を読んでいるのだが、これは上記のような興奮を私に引き起こさせてくれている。事情があって1日10分程度、という限られた読書時間の中で、最大限の興奮を与えてくれる本である。主人公、というか語り手の「おれ」がずーっとずーっとずーっとずーっと喋っているだけである。彼の言葉から彼が一体どういう状態でいるのか、どういう心持ちなのか、とか見えてくるのだが、それが肯定されたと思えばすぐに否定され、さっきまでこういう感じだと思っていたものが数ページ後には否定され、というさっぱり何があって何がないのかわからない、言葉の量に反比例して情報が減っていく、という言葉の無間地獄のような、もしくは言葉の賽の河原、というか。つまり積み上げても積み上げてもまた元の木阿弥に戻る、という感じの一冊である。堂々巡りと閉塞感、という要素で考えていくとカフカの『城』城 (新潮文庫)もあるが、あれはストーリーが堂々巡りなのであって、更に未完である。大興奮させられることに違いはないのだけれども。

しかしその言葉の密度が半端なく、ちょっと集中して読んでいこうとすると、すぐに上記のような興奮状態に陥るのだから性質が悪い。しかも最初にフランス語で書いた後に英訳した、とかいうベケットのエピソードを聞くにつけ、リアルな言葉の天才というのは現存したのだなあ、と思わせられるのであった。しかもこの書物、というか彼の場合、言葉の使い方ではなく、言葉の重ね方、外し方、そして壊し方、の天賦の才を感じずにはいられない。つまり他にこんな作家はいたことがあったのだろうか、ということである。いたのかも知れないけれども、私は知らないだけかも、とか思ったりもするのだが多分いなかったのではないだろか。

Siouxsie And The Bansheesの「Juju」を聴いても興奮はするのだが、それはまた別種の興奮である。邦題は「呪々」、ということである種「ゴス」っぽいイメージが確定したような4枚目のアルバムである。しかし彼女たちの場合、「暗い」と言う形容がされがちであるが、それは決して沈鬱な「暗い」感じではない。躍動感ある「暗い」感じなのである。だから決してダレることもないし、雰囲気だけあって音楽的に全然つまらない、とかいうことは決してないのである。このアルバムにはギターでJohn McGeouchが参加してから2枚目にあたる作品であるが、もう大活躍である。敢えて一貫したムードを出そうとしたアルバムらしいのだが、そんな中で彼のギターの豊かな音色が輝いていて、アグレッシヴなリフと細かいフレーズの積み重ねがとくに印象的である。当然ながらSeverinのぶっといベースもBudgieの暴れ太鼓も一丸となってこちらに向ってくるので、表面的には違うのだがもともとパンクバンドだったんだよな、そういや、と実感させられる強度の音楽である。長尺曲も勢いがあってドラマティックで何も言うことはない。そしてSiouxsieのヴォーカルは伸びやかで、しかし今作では低音重視のドスの効いた声でアルバムをビシッと締めているのであった。しかしバンシーズを聴き始めると、当分ずーっとバンシーズしか聴く気が起きなくなったりするものであるが、皆様はいかがでしょうか、って私だけ?