Groove 1880

電車に乗っていたら丁度高校生たちと乗り合わせたのであった。

女子1人と男子2人、しかも男子は皆ズボンを腰履きにし、1人は唇下にピアス、というなかなかに勘違いも甚だしい格好をしているような、そういう集団であった。しかし問題はその外見ではなく、その女子の発する言葉であった。

話題は日焼けサロンのようだったが、「チョー今、チョー宣伝してて、チョー焼ける」とかそういう発言をしていたので瞠目した。この「チョー」は「超」ではない。「チョー」である。

今やお笑い芸人が女子高生の生態を模写する際、もしくはどうでも良い感じにしょぼくれた中間管理職が忘年会で芸をする際に「女子高生と言えば」的な勢いで連発するような「チョー」である。女子高生を模写する際に「チョー」を使えば何とかなる、という風潮が出来上がってもう4,5年くらい経つと思うのだが、今日の電車の女子高生は未だにその「チョー」を本気で連発していたのであった。

その電車の女子も、中学時代から所謂メディア的に煽られた「女子高生なるもの」に憧れた結果「チョー」を連発するようになったのかも知れないが、最早その記号化された女子高生を代表する「チョー」を今更ながら連発するその姿に、最早トレンドセッターとしての女子高生の姿は見えず、単に零落し腐敗していく哀しい姿しか見ることはできなかった。もう女子高生が異端の存在として世の中で見られることも終わった。最早記号化されたとおりにその記号を演じていく女子高生の姿はそう語っていた。

もっと、年上には全く理解不能の存在として輝いていた時代が女子高生には確かに在ったはずである。でも、そうやって記号化されたことを嬉々としてやっているのでは、もう終わりなのである。当人たちが意識していようがいまいが、そういう役割を担っていた時代が確かにあったはずである。しかし時代はバロックの季節を迎え、単なる拡大再生産、もしくは単なる繰り返しのみに帰しているようである。大人たちに「女子高生だね」とか言ってすんなりと理解されていくようでは終わりなのである。

ということでここで「女子高生の死滅に向けて」ということを提唱したいのであるが、別にそんなことどうでも良いじゃん、とはたと気づいた。さっきから飲んでいるビールの勢いが切れたか、それとも昨日からずっと読んでいる間章の本の影響が途切れたか。まあ、要はまた今日も下らぬことをああでもないこうでもない、と思索しているうちに1日が終わりかけている、ということである。

Ricardo Villalobosの「Fabric 36」を聴く。人気の「Fabric」シリーズの第36弾である。とか偉そうに言っているが、このシリーズ私はJohn Peelのしか聴いたことないので、全く真髄に触れていないに等しいであろう。あ、Johnさんのはこのシリーズの真髄には触れていなくてもロックンロールの真髄には触れているかも知れないけれども。さて、今作であるが、ミックスCDという体裁をとりながらも全曲自身の新曲、というとんでもないもので、寧ろ彼の新作と捉えても問題がないようである。この間の2曲70分強の作品Fizheuer Zieheuerでぶっ飛ばしてくれた彼であるが、今作でもあの淡々とした一定のビートが永続する感じは相変わらずである。あ、「Fizheuer Zieheuer」よりはビート速めでハウス的、というかなんというか。さて、今作はミックスされているから、全くもって曲と曲の区別が難しい。でも、それがまた逆に同じ質感のキックに同じ質感の裏打ちクラップ、というのが延々15曲、70分以上に渡って続くわけで、これは別の意味でぶっ飛ばされる。聴いていて、段々と、実に陳腐な表現であるが気持ちよくなってきてしまうのである。様々な人との共作が(田中フミヤとか)含まれてはいるものの、やっぱり彼の曲は実に絶妙な隙間が配されており、それがここでは飽きる一歩手前から我々を救い出してくれているのである。逃げ場がある、というか。あまりテクノとかそういう感じの音楽にはここ10年以上明るくない私であるが、彼の作り出す極端なまでのモノトナスな世界は、逆説的に凄くワクワクさせてくれるのであった。