Pistol Packin' Mama

昨日のAOBA NU NOISEにお越しの皆様、どうもありがとうございました。あんまりもうアゲ続けるDJは出来ないなあ、とか思いながらも変なテンションで乗り切りました。途中DAFからLydia Lunchへと必死にピッチを合わせようとしている時(当然ながら合うはずもない)、「俺、何やってるんだろう・・・?」という疑念が頭を掠めましたが。

さて我が家の洗面所の洗面台から水がダダ漏れしてしまうのである。蛇口から水が出るまでのホース部からドバドバ面白いように水がこぼれるのである。何でも部品交換に時間がかかるらしく、それまで洗面所の洗面台は使用禁止である。

というわけで、台所の流しを使って今まで洗面台でしていたことを行っているのであるが、これがまた不便である。歯磨きも顔を洗うのも、全て台所で行う、というのもなんとも違和感が残るものである。場所が変わっただけで、別に水が出るところ、という意味では全く同等の立場に位置するものと思っていたのだが、その認識を改めなければならないのう、としみじみと思うのであった。

そんな中での最大の相違点、というのはコンタクトレンズをはめる際のスリルが段違いである、ということか。洗面台では排水口に栓をすることができるのだが、台所の流しではそれは不可能である。従って、かなり細心の注意を払って作業に取り掛からねばならない。もし間違えてポロリと落としてしまった時のことなど、考えたくもないのだが悪夢以外の何物でもない。ということでちょっと環境が違うだけで、日常はかなり危険と隣り合わせのものになりえるのだな、と毎朝緊張感とともに実感させられる。

しかしこういう些細な事件から感じられるのは、いかに我々の日常というものが脆弱な基盤の上に成り立っているのか、ということである。しかし日常のみならず、我々人間というものの存在も非常に脆弱な基盤の上に成り立っているのに、それを見て見ぬふり知らぬふりをしながら、歴史を築いてきたわけなのである。空気やら水があったのもたまたまなわけなのであるから、偶然こういう環境になっていて生きながらえているというのに、それに気づかぬふりをしてきていたのだな、と今回の洗面台の一件で悟った次第である。

でもそんな脆い存在だからこそ刹那な楽しみは必要なわけで、Harry Hosono And The World Shynessの「Flying Saucer 1947」を聴く。各方面で絶賛の、細野晴臣の新作である。まあ、世の中の評判云々は関係なく、私のような外様、若しくは俄か細野ファンでももんのすごく楽しめる、実に素晴らしいアルバムである。カヴァー、他アーティストへの提供曲、セルフカヴァー、新曲などをカントリー風、ヒルビリー風アレンジで演奏しているのである。カントリーというと野暮ったいが、このアルバムでは違う、とかそういうトンデモな意見を読んだりもしたのだが(そもそも「野暮ったい」という前提が違う、と思うのだが)どの曲もスウィング感溢れる解釈になっていて、それがとても心地よい。1曲1曲が短く、あっという間に次の曲へと移っていくような感覚なのであるが、次はどんなだろう、というワクワク感はここ最近では他に類を見ないほど凄く、昨夜からずーっとこのアルバムしか聴いていない。それでも飽きない。それどころか聴けば聴くほど楽しくなってくる。私はYMOにもはっぴいえんどにも全くと言っていいほど思い入れがないのだが、そんな私をも一発で虜にしてしまうような、そんな楽しい音楽がギュッと詰まった世界である。それでも単なる焼き直しとかノスタルジーとかに終わっていないのは、この完璧なバランスでの音の鳴り具合とか、1人で全部演奏している曲(森高千里との共作曲)でのオーヴァーダブのスリルとか、そういうハッとさせられる瞬間が散りばめられているからであろう。ミッキーカーチスとか忌野清志郎とか豪華ゲストもしっかりと華を添えている。ただ、UAとのデュエット曲では内橋和久がアレンジしているのだが、ちょっとこのアルバムに於いては浮いているかなあ、というかちょっと違和感を感じるのであった。まあ、それさえも良い感じでのアクセント、と解釈できなくもないのだが。そして全編で細野さんの決して上手ではないが、朴訥とした、渋いヴォーカルが冴え渡っていて、それが何よりも聴き所なのかも知れない。