Backwater

しかしこうやってNag3を続けていてひしひしと感じるのは、「人間というものは一時の気持ち・考え・感情というものを保つことはできないものなのだなあ」ということである。

例えば今こうやってPCに向ってキーボードを叩いている私という人間がいるのだが、実はここに記そうと画策していたネタを思い出せずに、徒に叩いているのである。で、こうやって結局メタ的なネタを書くに至っている、という体たらくなのである。

確実に何か書こう、と心に硬く刻んだことはあった。しかしいざやっとこさキーボードを叩けるような時間が取れると、それが全く何だったのか思い出せない。今思いを巡らしてみても、果たして頭の中に物凄い樹海が出来上がってしまっていて、その奥深くにそれはあるようで、どうにもこうにもそこまで辿りつけないのである。

多分、その書こう、ということを思いついた後に行った場所、見たモノ、電話などで話したことによって、その所謂ネタは樹海の奥深くへと追いやられてしまったのであろう。つまり、1日普通に暮らすだけでも人間の頭の中には、見たモノ聞いたモノ聴いたモノ経験したモノなどによってあっという間に樹海が形成されてしまうのであろう。

だから、その樹海の中で迷わずに光差す方向へと真っ直ぐに向っていける人なぞ、ごく一握りなものであろう。もしかしたらもっと大きなスケールで樹海の中で迷っている人だっているかも知れない。いや、そういう人だっているであろう。ポイントはその「樹海がある」ということを認識できるかどうかであろう。それを認識することによって、こういったネット上に垂れ流される駄文にしろ、人に対する接し方にしろ、もしかしたら生き方だって変わってくるのかも知れない。意外に皆、自分の中の樹海を認識せずに暮らしているのかも知れない。気づかない方が幸せなのかも知れないけれども、気づいた方が、確かにちょっと辛いことなのかも知れないけれども長い目で見れば得、となるのかも知れない。

というか単に今私の頭の中に樹海が出来上がっているのはビールを今宵は1リットル飲んだからだけなのかも知れないが。そしてまた更に0.5リットル飲もうとしている最中だからなのかも知れないが。ということでBrian Enoの「Before And After Science」を聴く。所謂Enoのポップス、というかヴォーカル入りアルバム第一期の最後を飾るアルバムである。この時期はCanとかClusterとの交流、アンビエントシリーズへの取り組み、David Bowieとの濃密な絡み、と彼の異常なまでの活発な活動が目立つ時期である。この後Talking Headsとか「No New York」とかTelevisionとかのプロデュース、アンビエントものへの本格的な取り組みとガンガンに突っ走っていくわけであるが、自身のアルバムは不気味なくらいに落ち着いた表情を見せている。まあ、それでも謎にうねるベースであるとか、ミニマルなドラムのパターンであるとか、結構トンガッタ要素は見受けられることは見受けられる。しかしそれ以上にこのアルバムに於いて印象的なのは彼の、実は意外に味わい深い落ち着いた、艶かしいヴォーカルであったり、フックがふんだんに入ったポップなメロディだったりするわけである。インストナンバーも数曲あるが、それ以上の完成度を見せるのがヴォーカル入りのポップなナンバーだったりするのである。ある意味彼のヴォーカル入りの(所謂)ポップロックとしてはまさに臨界点のような完成度のナンバーばかりなので、今考えてみればこの後の彼の活動も、ある意味ピークを迎えた後の次の一手、ということである程度納得が行くわけである。ちなみに蛇足ながら参加メンバーもPhil ColinsにJaki LiebezeitにClusterにRobert FrippにFred FrithにPhil Manzaneraに、とありえない程豪華である。それにしてもEnoというと小難しいイメージが先行しがちな昨今であるが、まずはRoxy Music時代の彼のポートレイトを見た上でもう一度考え直すべきなのではないか、とおこがましくも思ったりするのはやはり1.5リットルのビールのせいなのか。