Fragment-II

よもや野本かりあ嬢とSuicideの「Dream Baby Dream」は名曲過ぎる!という話で盛り上がるとは夢にも思いませんでした。

さて、この間まで暑い暑い、と唸っては、朝方汗だくで目覚め、といったことが嘘のように涼しい夜である。さすがに日中は、風は涼しくなってきたもののまだ暑いのう、とか言っていたのに、今では窓を開けておくと、この間まで全く風が入らずに灼熱地獄と化していた我が家も、いつの間にか風が抜け、涼しいものである。

お陰でこの間まで何もかけずに寝ても汗だく、だったのに今では涼しくてここ数日は非常に寝心地が良い。こうなってくると朝起きるのが滅法辛い。もっと、もっと・・・、と惰眠を貪り続けたくなるような衝動に駆られてしまう。

そしてこうやって涼しくなってくると、暑いのが苦手な故に駆け抜けた夏の代償が一挙に襲ってくるから厄介である。先週は仕事も再開するわ、夏の代償がどっと襲ってくるわ、でかなり青色吐息の状態で何とか切り抜けた次第であるが、酒も飲んでいないのに夜はふらふら、今日も今日とて昼寝をしてもまだ眠い、という状態が続く。

でやっとこの涼しさと暑さの反復の季節にも慣れたなあ、とか思っていると涼しさがどんどん勝っていき、季節が私をどんどん置き去りにして過ぎていくのである。ここ数年、季節に追いつくのがなかなか大変じゃのう、とか思い始めているのだが、それはアレか、年波、ってヤツなのか。

しかし季節の変わり目というものはことごとく厄介なものである。以前までは鼻の調子が悪くなれば、なるほど季節の変わり目か、とか思っていたものだが、最近は如実に体調に変調をもたらす、というか疲労感を伴ってやってくるものだからたまらない。

しかしこう涼しくなると世の恋する方々はセンチな気分になったりして涙の一粒でもこぼすのだろうか、とか思いながら高柳昌行ニュー・ディレクション・ユニットの「アクシス もう1つの自転するもの Vol.1」を聴く。彼の音源はレコードでは馬鹿高く、CDでは入手が難しく、となかなか四面楚歌な状態であるが、こうして再発していただけるとこちらとしては涙が出るほど嬉しい。これは1975年のライヴを収めたアルバムでVol.2も同時に再発され、泣いた。私は彼の「ノイジーな音楽をやってはいるが、ノイズをやってはいない」といった趣旨の発言を読んで、何か目から鱗が落ちた覚えがあるのだが、なるほど、確かに私が耳にしてきた数少ない彼の音源はそれを裏付けるものばかりである。さて、このアルバムでもそれは変わらず。バスクラとガットギターの絡みによる1曲目は音と音の隙間にも緊張感が漲る、ギリギリの対話がチェロを加えることによって微妙に変わっていくさまが面白い。そして山崎弘のパーカッションソロの2曲目では緩急ついたタム連打とその後のフォルテッシモの展開を予期させるパワフルなドラミングが楽しめる。思うに、ハイハットの使い方が非常に効果的で印象に残る。そして全体投射の3曲目では真骨頂とも言うべき、4人による怒涛のフォルテッシモ展開でこちらの血圧も上がる。燃える。ここでのキーは連打し続けるドラムによってボトムがしっかりと鳴っているところであろうか。しかしやはり他の作品同様、高柳のギターは爆音フィードバック主体でフレーズらしいフレーズは聴こえなかったり、ただ指が速く動いて音を紡いでいる感じだったりしても、何故かメロディを奏でているように聴こえる。それは晩年の「Action Direct」シリーズにしてもあんなドリルとかモーターとかの音の嵐のような中でも同じようにそう聴こえたりする。何なんだろうか。それを知るためにももっともっと彼の音源を聴きたいのう、と願うのだが。しかしこういう音楽を私なぞは素朴に、良いなあ、こういうところが染みるなあ、刺さるなあ、と聴いて喜んでいるのだが、どうも単純にそう表明することが許されていないような風潮はアレだなあ、と最近思ったりした。しかしそんなことは関係なく、素晴らしいライヴ演奏である。