L'Amour Made in Taiwan

思えば物心ついてから何か知らないが、活字なら片っ端から読んでいたような気がするのである。

小学生の頃は暇なわけであるから、家にある雑誌類は片っ端から読んでいたので、なんかいまだに当時の『クロワッサン』だとか『暮らし手帖』なぞはよく覚えていたりする。無駄に「簡単ホワイトソースの作り方」の「ダマにならない」という表現はとくに覚えていて、ダマって何だ、と思い続けていたものである。蛇足ながら、最近その謎は解明された。

市政だより、県政だよりの類も全く面白くもなんともないのに、貪るように読んでいたように思う。いまだに読めない漢字があったとしてもすっ飛ばして読んでしまうのは当時からの癖によるものだと思われる。

音楽雑誌もそれこそ『FMステーション』から『VIVA ROCK』から『音楽専科』から『ロッキンオン』から『クロスビート』まで暇に任せて読んでいた。とくに『クロスビート』誌のディスクレヴューコーナーは本当に隅々まで読んでいた記憶がある。今中古盤屋に行って88年とか89年くらいの輸入盤のジャケを「見たことあるな」、とか「これはあれと同じ月にレヴューされてたな」、とかなってついついゲットしてしまうのも暇に任せて隅々まで読んでいた輸入盤レヴューのコーナーのせいであろう。

とまあ冒頭で勇ましく「活字なら〜」とか言っておきながら結局雑誌ばかり、且つ音楽雑誌とかばかり、ということもあって、何ら文章の構成が上手くなった、とか思慮深くなった、とかそういう影響を与えるまでには至ってないところがとほほ、である。変にBlast Firstレーベルが、とかMidinight Musicレーベルが、とかそういう知識ばかりついてしまって。

所謂「本」の類は今の方が昔よりも読んでいるなあ、と思うのだが、昔もっと、今読んでいるような「本」を読んで、逆に今雑誌とかを読んでいた方が人格形成的に良かったのかな、とも思う。何か、ほら、最近の(別に最近に限ったことでもないが)教育現場では「本を読むことは(無条件に、絶対的に、半ば盲目的に)良い」となっているようだし!まあ『黒魔術の手帖』とか『超男性』とか『愛と笑いの夜』とかをもっと若い時に読んでいたら良かったのかどうか、という問題はさておき、である。

今日も相変わらずだるい感じでつらつらと書いているがSir Aliceのアルバムを聴く。最初の12インチ、その後のCDミニアルバムを経て遂にファーストアルバムである。上記2作を聴く限りでは、捉えどころがないなー、という感想を抱く程度だったのだがこのアルバムを聴いてその捉えどころのなさが一番の持ち味であり、魅力なのだな、と感じ入った。Volga Select、Nouvelle VagueのMarc Collinが絡んでおりその界隈の方か、とは前から思っていたが突き抜け度が格段に違い、とっ散らかっている。サンプラーが暴走しているような上でのフランス語の呟きや、ディスコ調ナンバー、曖昧な4つ打ち、ロックンロール的ナンバー、と見事にバラけている。しかしそれが散漫にならずにぎゅっと実像を成しているのはSir Alice嬢のヴォーカルと存在感で、ミステリアス、というよりも実在するのかどうかすら怪しいほどの胡散臭さを振りまいている。昨今(って今更だが)ニューウェーヴ云々、と言われる新しい方々の音楽が出まくっているが、私はこのSir Aliceとかに猛烈にニューウェーヴ的な匂いを、しかも現在進行形のニューウェーヴ的な匂いを感じるのであった。しかしTigersushi、最初はようわからんレーベルだなあ、とか思っていたが実はとんでもなく凄い目の利く、鼻の利く、そして当然耳の利くレーベルなのかもしれない、と認識を新たにしたのであった。